ボーカロイドは「文脈」と「人格」を手に入れた。
さて、久々のボーカロイド考察ネタです。
これまでもこのブログでは何回かボーカロイドとニコニコ動画について考察を加えてきました。
ニコニコ動画はもうほとんどボカロ動画といっても過言じゃない件 - 足ることを知らず〜Don’t feel satisfied 〜
「歌ってみた」と「ボカロ」が起こしたイノベーション - 足ることを知らず〜Don’t feel satisfied 〜
今回は、ボカロの曲とかボカロの現象に注目して、考察を加えるのではなく、ボカロという存在に対して、これまでボカロが辿ってきた歴史を切り口に解釈を加えたいと思います。
ボーカロイドという文脈
これまで、クリプトンのボーカロイドとしては以下が挙げられます。
・ZERO-Gシリーズ
・MEIKO
・KAITO
・初音ミク
・鏡音リン・レン
・巡音ルカ
間違いなく、この歴史の変局点となったのは「初音ミク」でしょう。そして、その後に発売された「鏡音リン・レン」「巡音ルカ」も重要な変局点を創り出しました。
初音ミクという神話
未来私考のgigirさんが、初音ミクについては考察を加えてくれています。
初音ミクという神話のおわり - 未来私考
2008年というのはまだまだ私がニコニコ動画新参の頃で、その神話については全く認識がありません。
しかしながら、ある種のお祭り騒ぎや「萌え」の要素で全てを語られていたのは確かでしょう。
お祭り騒ぎは、収縮に入ると、過度の現実視をもたらします。所謂「なんで俺らあんなのにワ―キャー言ってたの・・・。所詮ツールじゃん」ということです。
しかし、巡音ルカの登場によって、初音ミクは一つの文脈を持つことになります。
「別バージョン」の枠を打ち破った巡音ルカ
もしかすると、この文脈は鏡音リン・レンの二人がもたらしたものかもしれません。
しかしながら、巡音ルカは同じ女性一人、単純にみれば「声と絵が違う」のみの存在ながら、初音ミクと全く異なる文脈と人格を確立しました。
ただ単に声が違うだけではない。
お姉さんっぽいという特質やラブソングを中心に歌うレパートリーなど、ただのツールになり下がったボカロが再び「文脈」を持ちはじめたのです。「ダブルラリアット」や「Just be friends」など、ルカにはルカの歌うべき曲、ミクにはミクの歌うべき曲が存在するのです。
そう、ルカがミクと明確な『差』を持つと同時に、ミクも「自分」という人格を手に入れました。元々一人しかいなかった新ボーカロイドシリーズにおいて、歌姫の座から単なるツールへと回帰する前にルカに対してのミクという文脈を持ったのです。
そして、彼女はリアルとバーチャルの狭間に生きる存在となりました。
http://news4vip.livedoor.biz/archives/51616047.html
その影響からか、もうボカロの最新バージョンが出なくなって2年近くたつというのに、未だにボカロの熱は冷めることがありません。それは彼らが文脈を持ち、ただのツールを超えたということではないでしょうか。