足ることを知らず

Data Science, global business, management and MBA

異文化に殴られる覚悟がなければ、異文化は殴れない。


数カ月前に思っていたこと
とある、海外カンファレンスに参加した時に、僕はものすごい屈辱を味わったのです。きっと日本で仕事している人のほうが頑張っている。そして、地頭的な意味でも優秀な人は多そうな気がする。でも、会議はリード出来ない。そのジレンマはすべて「英語にある」と思っていました。


英語は確かに重要。
日本人にとって、英語を習得することはそんなに簡単なことではありません。昨日も同僚に"You use intelligent word!"と言われましたが(これが文法も基本会話もできねぇのに・・・という嫌味かは知らない)、まぁネイティブには遠いのです。多分、コンビニの接客とかで違和感ない日本語っていうのも難しいように、僕が違和感ない英語を喋るのも相当難しいのです。+耳ね。

でも、それだけではないと、イギリスに来て、はっきりと認識しました。現場は、しゅくしゅくと仕事をこなします。時には、人生において、もっと大事なものがあるから、仕事をここまでこの給料で押し付けられるのは嫌だ!と主張する場合だってあります。それは、日本的に言うと、不真面目で、やる気のない人間だなぁと思っていました。

しかしながら・・・・。なんとなく感じていたのは、今あるものを当たり前だと思う考え方が日本人には強すぎる気がしています。今あるルールや今の構造がずっと続く、だからそこに「最適化する」形で腕を磨く。そんな努力をしている人が、きっと多すぎるのではないかと思ったのです。それは美しい哲学であり、僕は何ら否定する気はありません。ですが、その哲学が適応される職業は、もはや多数を占めていないのです。

我々は受験時代から、偏差値が唯一無二のKPIだと思い、そこに向かって努力をします。それは素晴らしいことです。努力をするということを覚えます。しかし、時代を変える人間というのは、KPIを作りあげる人間ですし、KPIに向かって走る人間は何も1億人全員でなくてもいいわけです。

本当に長時間働いて、たくさんのスライドを作り、上層部の意見を動かすことが価値あることなのでしょうか?
その上層部が入れ替わったら?同じような上層部だったら良いけど、違う人格、文脈の人なら・・・?

そんなふうに現状を疑う力、それが今の日本や僕自身に欠けているな、と感じました。

それでも日本人は優秀だと思う。

それでも僕は、日本人というのは相変わらず優秀だと思うし、色々考えているなぁと思うのです。ただ、間違った方向にモチベーションを傾けても、評価されないことだけは理解した方がイイと思っています。

今の時代は、スカラーの時代ではありません。努力量ではなく、「正しい方向への努力量」が重要なのです。それはベクトルの時代とも呼ぶべきものですが、その「正しい方向」すら極めて不安定な時代です。
だからこそ、正しい方向を示し、更にそこに努力量を注ぎ込むことが重要なのです。後者は日本人に一日の長があると思います。

だからこそ、日常の当たり前を疑い、もっとよくしたら世界はどうなるのか、それはほんとうに出来ることなのか?というのを日々考え続けるのが大事なんだなぁと子供心に思いました。

以上!