足ることを知らず

Data Science, global business, management and MBA

「大企業」は何故ダサいと言われるようになったか

若い人からのネガティブイメージ
ここ最近、学生と話してみると、自分の会社のブランドがあまり高く評価されていないことに気づく。正直学生時代は、自分の会社のことをショッカー的な悪の巣窟だと認識していたので(何故受けたのかも覚えていない)、そこに全く違和感はないが、所謂優秀な学生が自分の会社に対して抱くネガティブイメージが今までと違う方向に少しずつ変化している気がする。若い人特有に何かに対して抱くネガティブイメージには2種類あると思っている。一つは経験の浅さからくる知らない刺激物への嫌悪感。これはどうにかなると思っている。一時的な刺激に嫌悪感を示しても、本質的な価値に気付ければ、むしろいいものとして認識できると思う。もう一方が「彼らのほうが」本質的な筋の悪さや思考の浅さを感じ、性的に無理というレベルで嫌悪感を感じる場合である。それは、むしろ会社側、社員側が一度自分を見直す必要があると思っている。


パラダイムでのイメージ
一昔前は激務であるとか、体育会系であるということに危機感を持つ学生が多かった。それは私も例に漏れず、学生最後の3月は消えてしまいたくなるレベルで働くのが嫌だった。あの時、ブラジルに連れて行ってくれた友人たち、ありがとう。そういう意味では、非常に表面的なネガティブ要因であったからこそ、助かっていた部分があると思う。

うちの会社は本質的には組織体系の整った会社ではなく、個人の突破力で突き進む会社だと思っている。そういう意味では、本質的に「体育会系」かどうかはクエスチョンマークがつくし、下克上上等、パフォーマンス主義がある程度実現されていたと思う。

その昔のネガと今のネガを混ぜてはいけない。今のネガはよっぽど本質的だと思っている。それこそ、学生の浅いイメージという一言で済ませられないと個人的には危機感を抱いている。


大企業はダサい?
少し学生に話を聞いていくと、ウチの会社以外に考えているのはベンチャーだったり、起業だったり、コンサルティング会社だったりする。所謂日本の大企業がまとめて一括りで「ダサい」と言われている感を感じる。勿論、こんなブログを描いている事自体がダサいといえばダサいのだが、そこには国内に限らない大企業のジレンマがあるなぁと感じていた。


大企業は個性だった
1950年から2000年までの経営戦略において「規模」はかなり優位性のあるアドバンテージだった。規模によって効果的なブランドイメージと効率的な調達コストを実現する。正に「規模」自体が、ユニークネスだった時代がそこにあった。規模を大きくする際に大切なのは「replicate出来る仕事」を作ることだった。必要要件を満たした人間が、一定期間を教育を受ければ、実現できる仕事。それこそが更なる規模をもたらした。○○で一番、××が出来る仕事。そんな個性が規模を大きくするだけで、実現されていった。

ScalabilityとUniqueness
ただし、それは競争産業、及びマーケットが固定されているという前提の元だった。デジタル化が進み、様々な産業でDisruptionが進むと、規模だけが全てではなくなる。規模は標準化を生み、その標準化は一度競争の定義が変わると一気に弱みと化す。シリコンバレーで生まれ、今や大企業と言われる企業と日本企業の違いを一言で言えば、ユニークネスを以って規模を拡大しようとしているのか、規模によってユニークネスを維持しようとしているのかである。その後者の会社であることに、今の学生が嫌悪感を抱いているのではないかと、危機感を強く感じるのである。


自分より若い人間を馬鹿にしない
優秀な学生というのは、大概、優秀な批評家であり、優秀なサバイバーであるので、「世の中のトレンドを掴みながらも、自分が大衆とどう差別化するのか」というのをよく考えている。僕は個人的に今の学生のほうが自分よりもよっぽど賢いと思っている。だからこそ、彼らの意見はとても参考になる。


少なくともまだうちの会社には、上記の話を本能的に理解した上で、ユニークネスを鍛えようとしている人がすくなからずいる。その経験は絶対何処の会社でも生きるはずだし、僕の理想である「どこの会社でも通用する人間がまだそこで頑張る理由のある会社」なのだと思っている。

学生に出会って、何が自分の会社を唯一無二の会社にする可能性があるのか、もう一度自分で納得できる理由と未来を考えてみたいと強く思った。