足ることを知らず

Data Science, global business, management and MBA

ネットのない毎日

ブラジルから帰って以来、実家にネット環境がないので、ニコニコをほとんど見ていない。

気づいたら、トップが水色になっていた。
RSSも全然チェックしていない。iphoneでチェックしようと思えば出来るけど、一つだけ元も子もないことを考えてしまったからだ。


RSSTwitterで情報の門戸を広げていたかつての僕のアウトプットを見ていると、どうも本質に至った思考が出来ていないことに気付いた。

恐らく大きなスパンで見れば、「どうでもいいこと」なのに、あたかも社会を変革したニュースのような捉え方をしてしまう。

というのも、情報量が圧倒的に多くなった場合、目に入るニュースが多くなる。そうすると、たいしたことのないニュースでもまるで不可逆的なイノベーションのように捉えてしまうものだと思う。

何が言いたいかというと、twitterにおいてやりとりされている情報の大半は不可逆的な「捉えるべき変化」ではなく、株価の上がり下がりと同じようなノイズである可能性が高いということである。もしくは変化の結果が色々なファクトとして、ニュースになっているのかもしれない。しかし、恐らく本質的な情報はもっとシンプルで明快なはずだ。

情報を集めることが目的化して、知識量のみ増えていったが、実はそこに思考を加えて、「そのニュースは本当に『ニュース』なのか」ということを考えないと、どんどん深みにはまる気がする。情報集めに必死で、アウトプットがおろそかになってしまうというのも、大きな弊害だと思う。確かに最新情報を集める利は大きい。しかしながら、その情報の本質を見抜いて整理整頓しないと、雑多になる。そういうものは古新聞としてまとめられて何の役にも立たない。生きる情報とは、何かのcriteriaによってカテゴライズされたものなのではないだろうか。