凄い奴と凄くない奴の決定的な「差」
これはきっと僕の持論なのだけど
僕が「凄い」と感じる人間と感じない人間を明確に分けるのは実は「能力・資質」でもなければ、「肩書き・ステータス」だけでもない。
多分、僕が感じられないだけで本当は凄いであろう人間は沢山いる。ただ、僕が最も刺激を受けるのは「僕に凄いと感じさせる『表現が出来る』人間」だ。
これは、別に僕に対して媚びている人間であるということや僕が「人を滅多に尊敬しない」人間だということを示唆しているのではない。
人間である限り、自分の能力・資質を相手に「示せること」は実はとても重要だと感じている。
例えば、「資質を示す」には実は+「相手を慮ること」+「相手の価値観を理解すること」が必要で、その上で最も自分の能力を認めてもらえる押し出し方をしなければならない。
だからこそ、「俺の○○(ウリ)はあいつには理解できない」というのは大変違和感を感じる。そもそも「凄さ」と「ウリ」が異なるという話なのかもしれない。しかし、やっぱり「凄いこと」は「ウリ」にすべきだと思うのだ。こういう排他的で独善的な「凄い」は芸術家には多いのかもしれない。その点、共通語で自分の成果を叙述する科学者や数学者の方が僕は好感が持てるのかもしれない。
自分の凄さを相手の言語(価値観)に翻訳する必要があるのだ。それは数字だったり肩書きだったりが必要なのかもしれない。だが、その翻訳が出来ないのであれば、それは限られた「凄さ」であり、自惚れと明確な差がつかないのではないかと思っている。
GSの日本のトップが仰っていた仕事に重要な3つの資質。
①頭②執着・根性③優しさ
相手を慮る優しさがないと、きっと自分の凄味や魅力を相手に翻訳することは一生出来ないと感じる。