足ることを知らず

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マウントをとっても人はきっと動かない。

ファクトを用いたマウンティング

年功序列の世界では、年次によってある程度のマウンティングが取れていたが、次世代においてはファクトを持ち出したマウンティングをすることが多々ある。もちろん、マウンティングを自らしなくても圧倒的な実績をもとに周りが「あの人すごいよ」ということでマウンティングする必要がないという状態が個人のブランディングが終わった状態であるが、そこに行く付く前に、人はファクトでマウンティングをする。XXという資格があります、武勇伝があります、うんちゃらかんちゃら。

かくいう僕も、時々ファクトを出してマウンティングをするときがある。特に自分の鏡のような斜に構えた後輩の指導の時には、てっとり早く言うことを聞いてもらうためにそういうファクトを話に散りばめたりする。(採用イベントのトークとかはどうひねってもマウンティングになるので、できるだけ謙虚にすることにしている)

 

マウントを取ろうとするうちは小さい人間

しかしながら、あるファクトに対する反応やその解釈は人それぞれであって、それが尊敬に値するファクトと必ずしも受け取られるわけではない。そんな中で無理矢理マウントを取りに行こうとすると、傍観者に対してありえないほどの深いなハラスメント感を残すことになる。まぁ、いわゆる空気が読める読めないってことなのだが。

加えて、人がなにかに従うとき、強制的にさせられることほどストレスを感じることはないのだ。普段からマウントを取ってしまうことは、部下に圧倒的なストレスを負わせていることになる。一部の外資コンサルなんかはこれに当てはまるところがある気がする。

 

内弁慶という言葉

しかしながら、特に日本企業では、年次とともに、勘違いが加速することがある。まさに内弁慶と言えるだろうが、客観的だと思っていたものがとても主観的だったということである。そう、命令を聞かせたいから、客観的にすごいと思わせたい、だからすごいと自分で言う。こんな非効率なコミュニケーションはないのだ。

 

吉本の会見

人は年を取り、実績を積むごとに叱られなくなっていく。すなわち、空気が読めていないことのフィードバックをしてもらえなくなる。その叱られなくなった大人の成り果てが、吉本社長の記者会見ではなかったのか。彼は間違いなく吉本というトップクラスの会社で社長になった人材なのだから、それだけで優秀なのだとは思う。(優秀の定義によるとは思うが。少なくとも、マネージャーの経験からいろんなことを一次情報に対して考えすぎてしまうタイプだと思う。)しかしながら、それはある特定の集団の中であって、その前提が崩れた会見ではあの有様だった。

あれだけ的を射ない会見は正直企業トップとして類を見ない。それは一重に、途中からマウントを取ることが目的になり、叱ってくれる人が、大崎さんやダウンタウン位しかいなくなってしまったのではないか。

 

老害に誰もがなる可能性がある

老害と断ずるのは簡単だけど、自分もいずれ老害に近い存在になる。そのときに謙虚に頭を垂れることだけが、自分を老害にしない唯一の手段だと思っている。今の若手は、きっと僕らの世代に比べて優秀だと思う。ガッツは人によりけりだが、そもそものガッツの定義が違っている。その世代をおしなべてマウントすることもナンセンスだし、自分がその世代に受け入れられないことを踏まえて、では、その世代の人材も含めてチームのパフォーマンスを最大化するにはどうしたらいいかを考えるのがリーダーの責任だと思う。

 

北風と太陽はマネジメントの最高の教科書だと思う

人々は北風に吹かれることで上着を脱がない。暑いという、一見直接的でないことに対して上着を脱ぐ。それは、上着を脱ぐ人の心理を理解した上での施策であり、そういうマネジメントをしないと、もはや機能しない時代に、年次ジャンケンと旧世代の経験によるマウンティングをしても暖簾に腕押しである。重要なのは、各人のインセンティブと力学を理解して、トリガーを引けるマネジメントだと思う。