足ることを知らず

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書評じゃなくて、書薦にしたい

書評を書こうとしたけれど

過去の僕のブログを見ていただければわかると思うが、今まで何度も書評をルーティン化し、読書とそれに基づいたアウトプットを習慣化しようとした。もちろんそれができれば自己評価的にも、思い出的にも素晴らしいものができたと思う。しかしながら、僕に卓越した要約のスキルがなかったことと、そもそも感銘を受けた本の内容を要約しまとめ、外部に発信することの意味を考えたときに、それが本当に人様のために役に立つことなのかという問いにぶつかった。

ぶっちゃけ、Evernoteにあげりゃいいんじゃねぇの?

 

要約の罪

ブログはもちろん備忘録として機能するので、要約をする労力がもったいないというわけではないし、HTMLのフォーマットはソースを含めて管理・アクセスしやすいので、利点がないわけではない。

しかしながら、一人の読書家として、「その内容を要約して発信してしまう罪」を少し感じてしまった。要約というのは、書籍の情報を僕の主観的なフィルターをもとに圧縮し、それなりに人にわかりやすくまとめる、すなわち情報圧縮の作業であり、圧縮された情報の裏には山程のバックグラウンドの情報がある。実はそんなDetailに感銘的な表現が眠っていることもあるのである。桃太郎を要約すると、「ももから生まれた子供が成長し、動物を仲間にして、鬼を退治した」という話なのだけど、少なくとも殺された情報は多岐にわたる。もしかすると人によっては「川に洗濯に行くおばあさん」や「きびだんごを求めるきじ」に何かしらのストーリーを感じる人もいるかもしれない。

 

原作を読ませる以上の書評はないと思う

多くの人が、要約が大好きだ。少ない時間を有意義・効率的に使おうと、ニュースも要約、本も要約することを求める。So Whatはコンサル用語として流行したが、「要するになんなの?」という言葉をあるソサエティではよく聞く気がする。しかしながら、そういう時代は若干古くて、要約は自分の意味定義での要約でしかないというのが今のトレンドであると思う。情報を落とす、強調する、その基準はすべて自分の人生のCriteriaに基づいているわけで、膨大な情報量の本を読む意味というのはそれぞれが違う解釈ができることに価値があると思う。

よって、要約を発表するというのは、著者にとっても大変失礼だし、自分にとってもあまりよくないなと思ったのである。

 

本をブログに載せる意味

著者も読者も幸せになる書評と言うのは「もっとほかの人に読んでもらい、本の知識を当然として意見が交換できる」状況にほかならない。もちろん、エンドユーザからすれば、読む価値のない本をフィルターしてもらう必要はある。だから、「クソ本でした。理由は①、②、③」という書評はそれはそれで意味がある。しかしながら、建設的な書評を考えるべきならば、書評は要約というよりは推薦でなければならない。そしてあわよくば、推薦した本を読んだ人から、自分とは違う解釈を引き出す道具でなければならない。

それが最近、書評を書かない理由であり、Facebookでだけ、自分のお気にいりの本を紹介する理由である。