足ることを知らず

Data Science, global business, management and MBA

グローバルビジネスという言葉の真意

グローバル、グローバルというけれど
1年、グローバル企業のヘッドクォーターでの業務を経験して、一番自分に身に着いた意識は「何ををどのUnit単位で共通化するか」という一点に尽きる。逆に共通化していない部分は、Customizationの走るところとなり、ローカルが裁量権を以って進める部分となる。

この1年の総括も含めて、少し自分の所感を整理したいと思う。


グローバル企業で頻繁に出る言葉
グローバル企業では、"customization"の一方で"standardization"されていて、"differentiate"されているけど、"easy to replicate"といった言葉をよく聞く。勿論そんなものは簡単には作れない。
結局グローバルビジネスの肝は、標準化と部分適応のtrade offの中でどうやってバランスを取るかにかかっている。どこまで各国の環境の違いを考慮するか、全世界で何を統一したものとして提供するのか。この命題に応えていくために「グローバルでの統一水準/規格」を定義するのがグローバルヘッドクォーターの重要なロールのひとつになっていると思う。


グローバル戦略とは何なのか?
グローバル戦略とは、各国で抱えているリソース及び各国の競争環境をひっくるめて、もう一度資源の再配分を目的に際して行うことである。即ち世界中のリソースを考慮し、世界中のビジネス・プロセスを考慮し、世界中のプロジェクト目標及び目的を設定しなければならない。依ってある程度の抽象化をしなければならないことは自明である。加えて、ローカルにすすめてもらう部分を明確に定義しなければならない。グローバル戦略とローカル戦術の切れ目をある程度明確にしない限り、お互いの裁量範囲を切ることが出来ないからである。即ち各ローカルで行われる部分適応を視野に入れた標準化を行う、これがグローバルヘッドクォータの役割だと考えている。

そもそも巨大な企業は「標準化」されていくべきである
そもそも巨大な企業で標準化/平準化を行っていない企業は、解体された方が良い。標準化は必要コストを下げ、ビジネス規模を容易に拡大させる。一方で部分適応は逆の効用がある。唯一「部分適応」が強いことはflexibilityの一点に尽きる。何かしらの変化があった際に、素早く状況に適応する事ができる。

例えば10000匹のアリの集団がいたとしよう。巣を一つにして、ルールも標準化した方が確実に強い「組織」となる。一方1000匹のアリの巣10個を作っているところは恐らく前者に比べて組織として弱いが、全滅のリスクは軽減される。

基本的には、大規模な組織であればあるほど「標準化」を推し進めるべきなのである。それを嫌うのであれば解体されたほうが良い。ただし、これには例外があって、標準化された「サービス」や「商品」、「ルール」が「正しい」という大前提がある。

例えば、初期のiPhoneを考えてみよう。製品ラインをもっと増やすことによって、国別に最適なブランドが売れたかもしれない。リスクヘッジにもなったかもしれない。だが、スティーブジョブスがやったことは、一切の「Localization」を許さず、統一された製品を売った。「グローバルで標準化された最高の製品」を目指したのだ。

だが、全てのサービス、ビジネスで「標準化された最高」を目指せるわけではないし、その最高が維持できる期間もどんどん短くなっているのが現実である。それはiPhoneが廉価版を出すなど製品ラインを増やしたことでもわかる。


グローバルVSローカルは海外ビジネスに限らない。
この標準化と部分適応のバランスはグローバルビジネスに限らない。その対象Unitを変えれば、簡単に国内の課題に化ける。
例えば、クライアント別にオーダーメイドのサービスを提供すべきか?それともある程度の標準化を行うべきか?
日本の中でも都市部と地方部で同じマーケティング施策を行うべきか?それとも各々異なる施策を行うべきか?

少し話をまとめると、ある集団は全て均一であるという立場に立って行われるのが「標準化」であり、各コミュニティ/集団にはそれぞれgapが存在し、それ毎に適応しなければならないというのが「部分適応」である。
だから、グローバル戦略というのは、論点が、各国のカルチャー、生活習慣、法規制やビジネス環境の違いになる。実はどのコミュニティでも向き合っている本質的な課題は変わらないと思っている。

キングダムに例えて考えてみよう
漫画キングダムの中で、秦は間違いなくグローバライゼーションを行おうとしている国である。そして、李牧率いる趙はローカライゼーション派である。
秦の皇帝政はバラバラの中国各国家を「法による統治」でひとつにしようとしている。グローバライゼーションの前提は何か?ということが分かってくる。グローバライゼーション、標準化の大前提は「明文化された(誰にでもわかる)ルール」である。多様な文化、コンテクストが全て異なることを認めた上で、明文化されたDisciplineまとめにいくのである。強いグローバルカンパニーはこの「明文化されたルール」が、かなりのレベルで練られており、且つ組織に対して、軍隊に近い効力を発揮する。これが崩れるとグローバルカンパニーである意義を失うからだ。

ダラダラ書いてみたが、アメリカという国はこのDisciplineで異なる各国をまとめるのが得意な国だと思う。多様な国の人間が集まる点、連邦と州の構成等、そもそもの国家がそういう成り立ちになっている。だから部分適応ではなく標準化の方に思い切り傾いていることが多い。
欧州は少しそれとは色が異なる。各市場に合わせてサービス、製品を提供しようとする傾向が強い。実効支配にこだわらない。

あと2年後には全然違うことを書いているかもしれないけど、今思っていることを備忘録として書いてみた。