足ることを知らず

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コロナ禍を機に気づく3つの幻想

 コロナ禍が奪ったものはかけがえのない命、数々のビジネス、様々な人の冒険の機会など山程ある。しかしながら、コロナがなければ気づかなかった、今の世の中の歪み・幻想もいくつかある。ポストコロナが言われて久しいが、どんなことがコロナによって浮き彫りになったのかをまとめてみたい。

 

1.デジタル全能主義という幻想

地球の裏側にいる日本のみんなとZoomで飲み会ができる。仕事もリモートで困らないことが多い。YouTubeどうぶつの森はいくらでも我々の時間を吸収してくれる。

 

それでも、自炊とレストランのご飯は違うし、スポーツイベントにみんなで熱狂することは出来ない。自分自身も運動もする必要がある。もちろんゲームや動画で補完できる部分はあっても、それなりのスペースを部屋の中に必要とする。

 

デジタライゼーションの進展は、このコロナ禍で、デジタルで代替可能な部分は殆ど代替してしまうという現象を起こすと思う。その現象によって、より強烈にハイライトされるのは「我々はデジタルの中に生きているわけではない」という事実ではないだろうか。

 

25年前の書籍であるビーイングデジタルは、ビットとアトムという概念でそれをハイライトしている。その頃と比べて、ビットで代替可能な情報は殆どデジタルの世界に格納されている。

しかしながら、我々はあくまでアトムの世界を生きている。飯を食い、服を買い、家に住まねばならない。その一部はデジタルによってリッチ化されるかもしれないが、根源的に変わりえないことは、我々はデジタルの世界で生をまっとうすることは難しそうだということだ。マトリックスの世界はまだ、来ない。

 

Zoom飲みに飽き始め、抑圧されているライブ、スポーツイベントへの飽くなき欲求は更に高まると思う。デジタルの世界の熱狂は、アトムのそれとはやはり少し違う。五感全てに訴えかけるアトムの熱狂に対して、デジタルの熱狂はあまりに情報的で、左脳的なのだ。そして、そんな左脳的なものに我々は思考を深めることは合っても、感情を揺さぶられることは少ない。

コロナの後は、f2f(フェイストゥーフェイス)のコミュニケーションはより重要に、そして差別化・特別化されたものになっていくだろうと思う。

 

2.グローバル化という幻想

上記のデジタライゼーションの流れもあり、世界はとても小さくなったように見える。大都市はどこも似たり寄ったりで、先進国では殆ど変わらない生活水準で毎日が送れる。

それは、そう見えているだけだというのが、今回のコロナ禍でわかった。

www.economist.comEUはグローバルで最大のSingleマーケットを作ろうとした。しかしながら、この緊急事態で数々の「理想と現実」のギャップに遭遇している。

・ロックダウンは各国でタイミングも施策も異なる。

・上記ロックダウンによる経済被害も大きく異なり、EUからの支援金のプライオリティに国ごとの不公平が生じる可能性が高い。

・このような緊急事態において、EU規制が自国規制の上位に来て、対応が遅れている国の不満が高まっている。

・また元々経済的に困窮していたイタリアとスペインは、自国通貨での借金やインフレ施策などが出来ず、もう立ち直れないレベルの経済的ダメージを負ってしまった可能性が高い。

 

すなわち、各国とも実は状況が全く異なっているために、きっと最適解も違っているのだ。しかしながら、グローバルでの同調圧力は、数国を除いてロックダウンという施策に帰結した。ロックダウンの効果というのは、後世の歴史でしか評価はできないが、本当にすべての国が採用すべきであったかは未だに懐疑的なところが多い。

 

コロナ禍の被害は全く平等ではないから、各国が自分たちに一番適した施策を採用する必要がある。WHOが今回機能していないと言われる理由は、全世界に画一的なアドバイスだけをしてしまっているからではないだろうか。

 

3.生死が他人事であるという幻想

少子高齢化という先進国共通の課題は、言い方を変えれば、一人一人が必ず迎える「誕生」と「死去」というイベントから離れている社会と言い換える事もできる。

コロナ禍で亡くなった人数は、統計的には大した人数ではないものの、万が一を含めて各人が意識した”死”の近さは人生の理不尽さを感じさせたのではないだろうか。そう、人生はとてもとても理不尽なもので、いつ誰が死ぬかわからない。

 

だからこそ、一日一日を大切に、自分に正直に生きる必要がある。コロナ前からの「好きなことで生きていこう」という先進国の仕事の多様化とフレキシブル化は更に加速するだろう。アライアンスであったような、ミッションベースの雇用契約が更に進んでいくかもしれない。

 

 

そして、迫り来る死の恐怖を乗り越えるために人間の理解を超えた何かにすがる人も出てくるのである。そう、宗教だ。結局、そこそこの知能を持つ生き物が限りある寿命を持つというのが一番残酷なことなのかもしれない。これまで自分で意思決定をして、あらゆることに対応してきた人間でも、死というのは決めるものではなく、受け容れる対象だ。だから、そこから逃避するために薬物やアルコールに逃げる人間は少なくない。宗教やマインドフルネスは、これらの恐怖を少しでも生産的に乗り切る手段であり、コロナ禍でその需要は加速すると思う。