足ることを知らず

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勉強が出来る事と仕事が出来る事の違い

仕事と勉強
これは仕事や勉強の定義によって大きく異なることなので、少しだけ定義を狭めてみます。勉強というのはlearnの様な広義の「学ぶ」ではなく、studyの様に何かテストの様な一義的競争に向けて知識を詰め込んだり、手法を学ぶことです。
それに対し、仕事が出来るというのは作業や一般的なコミュニケーションも含めて仕事が出来るという意味である。

さて両者の一番大きな違いといえば、前者には明確な答えが存在し、後者は結果主義で評価されるため、取り組む際には明確な「正しい」答えなんて存在しないということである。

前者は明確な答えが存在する分、その正確性が重要とされる。寸分の間違いも許されぬため、充分な準備が必要なのだ。即ち、勉強が出来ることというのは「真面目さ」「正確性」等の尺度として評価されるべきであろう。

対して仕事というのは社会が評価体系を成すためにそもそも明確な答えもなければ評価尺度も一義的ではない。どころか状況によってスピード感を持って変化する。勉強できる人間にも判断のスピードや頭の回転等は必要なのだが、仕事では更にquick&dirtyな判断力が必要となる。これはアドリブ力と言うべきものかもしれないが、「何を捨てるか」ということが重要になったりするわけだ。これは勉強にも必要だというかもしれないが、勉強ではない。良い成績を取るには必要なことなのである。
結果と過程
勿論「良い成績を取ること」と勉強が出来ることは異なる。前者は結果であり、後者は過程である。良い成績を取ることは仕事が出来る事と同じ様に「勉強しなくても良いこと」を見きった上で要領良く物事を進めなければならない。勉強が出来ることに比べ、良い成績を取ることはプロジェクト的で、どちらかと言えば仕事的でなければならない。勿論、環境の変化や求められるアドリブ力は仕事に比べれば微々たるものである。

やはり仕事というのはプロジェクト的で明確な目的がありながらも、正解がなく、変化への柔軟な対応を求められるものだ。


学歴に対する持論
最近、何故こんなことを書いたかというと学歴で人を取るということに対する面白いエントリがあったためである。

「学歴」って・・・


このエントリでは学歴の持つバックグラウンドに注目していた。そのために学歴を持つ人間自身が学歴に埋もれてしまうことも指摘していた。

学歴は、たんに個人の能力を示すものでは無い。その個人の両親や家族の育ちや資産までも推し量れるステータスだったのだ。

僕から言わせればそれもわかる気がするのだが、学歴とは「結果」であることが実はとても大きい気がする。このエントリで述べられていた「バックグラウンド」は結果に対する過程を推量しているわけで、どちらかと言えばファジーなものだ。大学生活4年間、ましてや大学入学前の生活など同じ東大生の母集団を取っても天と地ほど違う。家族の育ち等を測るのに学歴は最適な指標とは言えない。むしろ直接聞いた方が速い。それに期待して採用活動をする程、企業も馬鹿ではない。

どちらかと言えば受験というプロジェクトに残した結果という意味合いが学歴には強いと思う。世の中で最もイージーなプロジェクトをどのランクでクリアしたかということだ。努力や要領の良さも全て踏まえて、結果がどのように残ったのかが重要なのである。

だから、学歴の評価なんてたかが知れている。過去の仕事が出来た人がずっと評価されないのと同じだ。4年前のプロジェクトなので、大学在学中の最近のプロジェクトのことも詳しく聞かれるわけで。

というのが学歴に対する僕の持論である。