足ることを知らず

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ちゃぶ台返し

破壊的イノベーションっていう言葉があるけれども、何も社会的なことだけじゃなくてプロジェクト単位でも、破壊的イノベーションは起りうる。

それが「ちゃぶ台返し」ではなかろうか。


ちゃぶ台返しを成功出来る人間は限られている。

・強権を発動できる。
・向上心、こだわりを常に持つ。
ちゃぶ台返しをした後のフォローが秀逸である。
・終着点が見えている。

そんな人がたぶん宮本茂さん。
宮本茂 - Wikipedia

ちゃぶ台返し [編集]

1本のゲームソフト開発に注力する立場から、任天堂関連ソフトを全体的に監修する立場が強くなった現在、駄目出しの結果「面白くない」と強権を発動してほぼ白紙に戻す「ちゃぶ台返し」(本人命名、英:return tea table[13])を行うことが多々あるという。それは、個別に仕様を変更した結果、全体が変わっていたものから、初めから全体的に変更するものまである。このことから情報開発本部や関連取引会社からは「宮本チェック(ミヤホンチェック)」として大いに恐れられているという。以下、ちゃぶ台返しが行われたと判明しているゲームを箇条書きで記す。

* 『星のカービィ

1991年末当時、『ティンクル・ポポ』というタイトルで株式会社HAL研究所からの1992年1月下旬の発売が既に決定し、2万6千本もの受注を受けていたのにも関わらず、宮本の「ちょっといじるだけで物凄く面白くなる」という発言を受けて桜井政博ら開発者達が一旦発売を中止にする。キャラクターデザイン面などを再調整した後、任天堂が発売元となり、再度受注を取り直して発売。最終的には日本国内で約172万本、世界累計500万本以上を売り上げ、「カービィ」という新たな任天堂キャラクターの確立に至る。

* 『ゼルダの伝説 時のオカリナ

NINTENDO64」の発売前から開発が続いており、当初はNINTENDO64が発売された1996年内に発売する予定であった。しかし開発の遅れやより高い品質を目指すため年単位で延期を繰り返し、結局発売は1998年11月21日まで伸びに伸びた。青沼英二や小泉歓晃等のディレクター達がゲームのクリエイティヴな面で開発をし、プロデューサーの宮本茂が音の注文をつけたり、サブゲームを補完していくスタイルで開発は進められた。なお、それの影響か、これ以降NINTENDO64の時代の間、任天堂は発売直前にならないとソフトの発表を行わないようになった。

* 『メトロイドプライム

アメリカのコンピュータゲーム開発会社、レトロスタジオの社員曰く、「宮本茂氏の来訪は、(スター・ウォーズに例えると)銀河皇帝のデススター訪問並みの恐怖」とのことで、宮本は国内外を問わず必要と見たら「ちゃぶ台返し」を行っていると思われる。ちなみにゲームがFPSスタイルになったのも宮本の提案によるもので、当初はマリオ64のような三人称視点の探索ゲームだったという。この際それまでにできていた部分がほとんど全て作り直しになったらしく、その時の記憶が蘇ったものと思われる。

* 『ゼルダの伝説 4つの剣+

このゲームにはナビゲーターの声を頼りに、フィールドの中を駆け回って指示通りに「海賊のメダル」を集め回る『ナビトラッカー』というゲームモードがある。このゲームモードは当初、集めるものはスタンプだった。開発の終盤も終盤、宮本の「そこを変えると、ゲームのイメージがガラッと変わるから」との進言で、それまでのスタンプラリーから、世界観に適した「海賊のメダル」を集めるという内容に全面的に変更されることが決まった。これが2004年1月初旬のことである。ちなみに、本作の発売日は2004年3月18日である。約2ヶ月の間にシナリオ、セリフ、ナビゲーターの音声録音、ゲームデザイン、グラフィックス、演出等が作り直されることになった[14]。

* 『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス

クレジットはプロデューサーであるが、現場に入り実際の開発にも深く携わる。岩田聡社長直々の提案もあり、2005年末の発売予定を2006年末まで1年間延期する決断を下す。その上で、迷走していた要素を1つ1つ丁寧にしっかり纏め上げるよう指示を出しては納得できないスタッフに説明し、説得した上で再修正したり、不安な要素を払拭する地道な工程等を指示した。宮本曰く、「茶碗を並べ替えただけ」。開発スタッフ曰く、「オセロみたいな感じ」、「いつの間にか真っ黒になってる」という、今までにないパターンの「ちゃぶ台返し」だったとのこと。
宮本がスタッフを納得させる手法はスタッフ曰く、「相手を動けないようにしてから避けようのない急所を突く」。スタッフが納得できない場合、逆にどうしたらできるかを問い詰めた上で、宮本が反撃、スタッフを的確に突き上げ改心させるというものらしい。
それまでになかった点として、業務指示の手段に携帯電話のメールが多用されたという。宮本からスタッフへの変更指示は、通称「とほほメール」と呼ばれる。
また、2005年5月から2006年5月のE3の間に、それまでは「プロデューサー」であった青沼英二の肩書きが「ディレクター」へと変わっており、青沼曰く「1年間作ったのに宮本にちゃぶ台を返され、その結果だ」[15]。

2004年3月24日にアメリカで開催されたゲームクリエイターのための会議「Game Developers Conference 2004」において講演した青沼英二によって、宮本茂の「ちゃぶ台返し」のエピソードを面白おかしく語ったことがきっかけで、この話が全世界的に知られるようになった[16]。


ちゃぶ台返しがなかったらあの名作もなかったと。

ただし、「適度」で済ませられることが条件だとは思う。何度もやっていたら、メンバーのモチベーションが続かない。一回やっただけでも相当腐ると思うし。

圧倒的なマネジメントスキルとこだわりがあってこそ破壊的イノベーションをやってのけることが出来るのだと思う。

ついでに宮本さんは初代ポケモンのライバル「シゲル」の元ネタのヒトでもある。