足ることを知らず

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ファクトとロジックの関係

時々「君はロジカルだね」と言われる。

ただ、僕のいる学科の人間は僕より数倍ロジカルであることは疑いないし、プロのコンサルタントの方々なんてもっとロジカルだと考えていた。

しかしながら、少し違うのかなと思う面もある。ロジックを立てるところが弱いのではなく、もっと部分的に欠けている部分があるのではないかと。勝間和代さんが座右の銘として仰っているのは「起きたことはすべて正しい」という一言である。どの様な意図で仰っていたかはわからないが、ここが僕に決定的に足りない部分だと思っている。

何が言いたいかというと論理的整合性というのはそもそも事実に立脚していない場合その目的を大幅に失うということだ。何故、論理的に物事を話す必要があるのかというと「事実から離れた自分の所見・戦略に対する説明責任を満たすため」即ち、周りを動かすためには納得が必要で、納得を生むためには誰もが理解できる共通言語で話さなければならない。その時に「合理的」で「道筋が美しい」ものであればあるほど好ましい。ということだと思う。

構造的に考えれば

事実→原因(課題)


に移るときに必ずある程度の飛躍を伴う。これを埋めるのが論理の道筋というわけだ。
そして、

原因(課題)→解決するための選択肢→重みづけ


という実行フェーズではかなり論理が重要視される。勿論選択肢を出すときは少しクリエイティブなひらめきも不可欠ではあるが、結局重みづけを論理の法の下に行うため、余りに飛躍したものは周りを説得できず、実行できないのである。

さてさて、勘のいい方はもう気付いたと思うが、このプロセスは「事実」が間違っていた瞬間全ての価値を失う。解決すべきでない課題をでっちあげてしまうからである。

だから「事実」というのはそれ程重要なのだ。しかしながら、100%事実を事実として捉えられる人間はとても少ない。理解する際にある程度、恣意性を含ませてしまうのが人間である。その事実が人から伝えられたものであれば既に前任者が恣意性を含めているかもしれない。だから、数字が必要なのだ。数字は「元も子もない」言語である。彼らに恣意性を含ませた瞬間「捏造」になるからだ。統計のマジックという手もあるけど。

で、僕は事実に重々にして恣意性を含ませがちだよというのがこのエントリで言いたいことの一つ。ロジックを立てプロセスは嘘をつくのが得意な自分にとってはむしろ強い部分なのかもねと。ただ、その基礎となる真贋についてはレンズが大分曇ってる。(レンズについてはまた書きます。)それだと反省文にしかならないのでもう一つ重要なことを伝えたい。

それは論理的な道筋もとても大切なのだということ。事実だけで行動を起こせることはほとんどない。事実は本質を映すかなり微細な側面でしかない。だから、事実を受けて対症療法的に「浅い」論理構成で対応をすると、ほとんどの場合、異なる課題が現れたり、あまり意味のない展開が待っている。事実そのものに大きな価値はない。それを論理の道筋で深く理解し、本質に辿り着くこと、そこから課題解決に導くことでやっと価値がある。

昨日、東京大学の産学連携本部の各務教授がターゲットセグメンテーションについてこんなことを仰っていました。

「ターゲットセグメンテーションというのは単に事実を切り分けただけでは余り意味のあるものとは言えません。そのセグメンテーションによって、それぞれの戦略、特性がはっきり見えて、『何をすべきか』という行動に結びつくようなものが素晴らしいセグメンテーションなのです。」


正にその通りだと思う。事実を切り分けただけでは「事実の整理」を行っただけである。そこに恣意性を含めながらも「成程」とうなり、今後の道筋が見える、次につながる「論理」が価値を持つのだ。