足ることを知らず

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北欧を知らないやつは一度その物価と味わいの深さを身で体験しろ。

北欧日記
アイスランドに来ている。

メンヘラの女の子みたいに、激しい突風と身にたたきつけられる雹が降った5分後にはカンカンの日差しが照っている。なんて日だ!がずっと続くレベルの天候なのである。

5月、温度は2度、日の出4時、日が沈むのは10時である。
寝かせてくれと言いたいレベルだが、これは夏至が来るまでさらに極端になるし、一方で冬至のえぐさは想像に難くない。
北欧は鬱になりやすく、自殺率も高いといわれるのもある程度は納得できるくらいの極端な上がり下がりがある。

さて、この国、それ以上に物価の高さがえぐい。大衆バーでビールを頼めば1000円以上、普通のレストランで前菜スープを頼めば2000円。極めつけはスーパー銭湯が15000円でディズニーランドより高い。もちろん僕はディズニーランドのほうが圧倒的に楽しいと思うし、ちなみに飲み物、食べ物もディズニーランドのほうが安い。(パックのシーザーサラダ、2200円になります。)恐らく農作物が畜産が豊富にできるような土地ではないので、海鮮物くらいが名物になっている。

空港から一番安いバスでの往復が7000円したのも面食らった。ロンドンからの航空運賃の50%である。もう海に直で着陸してくれ。

一方で、そこに広がる自然や景観は素晴らしく、空気もとてもおいしい。ロンドンで最悪の花粉症に見舞われたが、そんな症状はどこかに飛んで行ったのである。
(代わりに寒さによる肩こりという負債を負ったが。。。)

北欧はデンマークスウェーデンしか行っていないが、似たような気分になった気がするのだ。

何故北欧にあこがれがあるのか
ふと、考えたのは、このバカげた物価で暮らしているこの国の国民は果たして幸せなのだろうかということである。いや、もしかするとものすごい給与が高いのかもしれないが、北欧の人は福祉に頼っている分、貯金がない人も多い。大きな政府がある意味で資本主義よりは社会主義よりで機能しているということなのだろうか。

この領域はずぶの素人なので、種々の訂正意見は大歓迎なのだが、この北欧という国が、圧倒的に優れているといわれるのが生産性である。
北欧ではなぜ高い労働生産性を維持できる? - IT、IT製品の情報なら【キーマンズネット】

まぁ確かに細かい働き方でいろいろ変わる面もあるだろうが、僕はそういうことではないもっと根本的な差異を感じたのだ。
街行く人や、北欧のチームと働いた時も、抜群の生産性の高さを感じたことはない。もっと言えば、交通網も発達しているとは言い難いし、ビルも古いものが多い。
これで一番の都会なのかなぁと疑問に思うことが多いのだ。

北欧から生まれた世界を代表する企業も多いが、生産性でナンバーワンになった会社なのかは甚だ疑問だし、破壊的イノベーションを起こしている企業も多くないと思われる。

ここで生産性の定義に立ち戻ってみると、北欧がガンガン上に入ってくるのは一人当たりGDPGDP nominal)である。
List of countries by GDP (nominal) per capita - Wikipedia

どちらかというと取引額(物価)が大きいのと、チーム人数が少なくならざるを得ない(就労人数が少ないため)というのが大きな要因ではないかなと思っている。

問題は、なぜそのような国になっていったかということである。

北欧の一番大きな意思決定
僕らと彼らの一番の大きな違いは、国家として「人口を増やし国力を強めることをあきらめたこと」にあると思う。
もちろん彼らも人口を増やすために移民受け入れに積極的かもしれないが、国としての戦略は、少ない人口と緩やかな人口成長率をもとにすべてが設計されていると思う。

僕たち日本人の生きている(た)世界は間違いなく資本主義・社会主義の枠組みを超えた「量=サイズ」の価値観が強く根底にあると思う。
現に第二次世界大戦後、世界を二分したのは莫大なマーケットサイズを誇るソ連アメリカだった。そして私たち日本も狭い国土にもかかわらず第二の経済大国として育つに至った。これはすべて、サイズの勝負であり、一人当たりの話は一度も出てきていない。だが、我々にはこの戦後の高度経済成長期の成功体験が痛々しいほど明確にDNAに刻み付けられており、量(サイズ)を追うようにできている。量を追うための手法として国家が先導する社会主義と各自の競争が先導する資本主義があるわけだが、どのみちサイズを大きくする一番の根源は人口である。中国を見てほしい。手法は後からついてきた。たぶんインドもそうだ。人というガソリンがあれば、あとはどうタービンをうまく回す仕組みを作るかということなのだ。かくいう日本も戦後は人口が米国、中国、ロシアに次いで多い国となっていた。
こと「教育」という分野において、僕たちは強く競争し、エリートになることを基本的に目指しながら努力をする。そして何かしら世の中を変えてやろうと思うわけである。大企業で出世することも、スタートアップで産業革命を起こすことも基本的にはサイズを追う行動であることに変わりはない。

さて、人が増えない、人を増やす競争にはもう勝てないと早々に悟った国がいくつかある。それが北欧なのだと思う。
北海道の人口を東京の二倍にしてください。お金はいくら使ってもいいから。と言われても絶対増えないと思う。北欧の人たちが、冬にどれだけ外に出ないか舐めていると思う。
寒い地域はそれだけで人を多くかくまうことに難しさが生まれる。食料の確保コストは圧倒的に高いし、住居、衣服にも温暖な地域に比べれば数倍の社会・個人コストがかかる。
そもそもたくさんの人たちが住んで人口をバンバン増やしてサイズを大きくしていくことには相当のビハインドがあるのだ。

だからこそ、彼らは少ない人数で大国と勝負するために、サイズではなくクオリティを重んじていったのだと思う。

何故北欧は自然が豊かなのか?
彼らの当時の戦略はわからないが、結果としていわゆる普通の先進国が経済的なサイズを追いかけて失ったものに自然がある。
人が増えれば、自然は壊れるのだ。それが意図的であろうが、なかろうが。そして気づいたときには遅いのだ。何故なら時に自然破壊は科学的に証明ができていなかったものもあるからである。例えば、昔のペットブームで輸入されたミシシッピアカミミガメが日本の生態系を大きく壊しているが、誰がそれを当時国家レベルで指摘できただろうか?
世が世なら、ペットブームの立役者が「イノベーティブでトレンディーな経営者」としてもてはやされていたのではないか?
サイズを追う価値観は、時にその波及効果を軽視する特徴があると思う。そうでなければ、今の中国の大気汚染は起こりようがない。今の日本ではcontrovercialなトピックになっているけど。

価値観の違い
僕はもうサイズの価値観で生きてしまっているから、北欧の価値観を推定しているだけだが、何となく違う価値観が根底に流れている気がする。そして、それはカルチャーギャップや国ごとのギャップという小さなものでなく、サイズ対クオリティというもっと根本の価値観だと思うのだ。
でもこの反対の姿勢は実はとても大切で、「破壊的イノベーション」に賛同するばかりでなく、そのクオリティ面での波及効果と変化の影響を懸念することはとても大切だし、そのイノベーションの本質をマクロとミクロで多角的にとらえるべきだと思う。

インターネット広告が世に現れた時、みなが両手を挙げて破壊的イノベーションだと感じた。
無限の広告枠、圧倒的に低い露出単価、高度なターゲティングをはじめとした効率的な広告提供、精密な効果検証。
しかし、その実、バナー広告の半分がみられていないと、本丸のGoogleが発表したのは2012年のことだった。
サイズに縛られていたからこそ、それまで何年間も両手をあげて売り上げと表面的な数値を追いかけて一喜一憂していたのだ。

私たち日本人は、サイズだけを追う価値観から脱却せざるを得ない立場にいると思う。一番の不幸はクオリティを追いかけるべきアセットサイズで、まだサイズを追いかけようとすることではなかろうか。