足ることを知らず

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先進国の息苦しさは解決すべき一つの問題ではないか

最近、日本のニュースを見ていると、ジェンダー論やLGBTに関する議論がものすごく話題になっているなぁと感じた。確かにこの議論において、日本は欧米諸国に比べてその議論の深さも議論からのアクションもビハインドであるということは何となく感じるところがある。

ただ、それを「LGBT後進国」と言っている人にはものすごく違和感を感じている。それこそ、欧米諸国をスタンダードとしたときの後進国という言い方であって、全世界にある全ての国を集めて、LGBTに対する意識を平均化した数値で表したときに本当に日本が後進国なのかは甚だ疑問。加えて、全世界的に見れば日本はそんな議論が出ること自体、先進国だと思うのだ。要するにとても豊かな国なんだと僕は思っている。

「Diversityは素晴らしい」というMajorityのもとに、Minorityを認めようとするのが今の欧米的世論なんだと僕は思っている。そこに大いなる矛盾を感じなくもないが、この「Diversityが素晴らしい」というのはみんなが優しくて、みんなが余裕のある前提で生まれる価値観なのだと思っている。人は余裕がなければ社会的生物としてよりも自然的生物の側面が強くなると思っている。即ち暴力的になるし、利己的になるし(社会的に振る舞っているようでも遺伝子的な自然淘汰のルールによって社会的に振る舞う遺伝子が残るのであって、遺伝子はあくまで利己的だと僕は思っている。詳しくは下記。)、社会的でなくなると思っている。

利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

即ち、ここ数十年でいわゆる日本が遅れていると言われているようなトピックは、すべてまだ個人に余裕や余力がある前提で話されている議論だと思う。もっと端的に言えば、人間が社会的生物として、一見自然的生物であれば行わないような意思決定や環境形成を行うことだと思っている。

例えば温暖化が超進んで、資源に限りが出てきて、一切の火力発電による発電を切らなければ、南極と北極の氷が溶けて、みんな死にます。という自体に陥ったときに、誰がプライバシーを気にするのか。GDPR?知らねぇよ、糞でも食らってろである。

僕は時々、先進国の社会にそういう「議論が発展しすぎたゆえに生まれる息苦しさ」を感じることがある。何かを発言すれば、Minorityが傷つくからそのような発言は控えるべきであると言われ、Minorityの盾のもとで守られる変な発言もある。

そして、先進国諸国がこれらの議論を深めていても、後進国では明日生き延びるのに必死な人が、もっと自然的生物としての社会を形成していて、そちらのほうが、時々居心地よく見えてしまうときが、正直言ってあるのだ。

僕はこの議論に関して結論が出ているわけではないし、先進国で暮らすことをやめられない人間だろうが、違和感を持って、議論を眺めている人は相当数いるのではないだろうかと思う。