最近、疑問に思っていたことがある。どうして、ここまで世界的に競争力の「あった」国が、今やほとんどの分野で競争力を落としたのか。現在だけでなく、将来的な見通しすら暗いと評されるようになったのか。
先日iPadが発表された。
それに伴いTwitter上は物凄い反響だったのだが、東さんがこんなことを呟いておられた。
東浩紀@ゲンロン叢書創刊 on Twitter: "やっぱりAppleとかGoogleって「思想」なんだよなあ。商品を売っているのではなく「生の新しい様式」を売っている。そして夢を売っている。それができなければ技術者も経営者も思想家もだめだ。"
以下、僕は東さんのように「思想」の専門家ではないので、「思想」という言葉の使い方自体おかしいかもしれないが、お付き合い頂ければ幸いです。
何事にも思想ありきである
実はこのつぶやき、曲がりなりにも技術経営を学んできて、感じたことと重なる部分があった。僕は自分の専攻でテクノロジーによるイノベーションのケーススタディを何件か学んだ。sonyのウォークマン、ipod。また、マーケティングやオペレーションのイノベーションも学んだ。個人的には運送会社(ヤマト等)が面白かったと思う。そこには企業の社会に対する思想があった。まず、思想がある。技術と経営というのはそこに至る手段に過ぎないのだ。技術自体や経営自体が目的化してしまえば、それはもう企業ではなくて学者でしかない。
そもそも思想って何?っていう質問もあると思う。
僕の定義では「生活者や社会に対する明確なビジョンと価値観」だと思っている。
AppleやGoogleの素晴らしいところは、全ての技術、経営意思決定が思想からぶれないことである。これは大企業になればなるほど難しい。そして、ビジョンの規模と事業が相反していないことが大切である。えばgoogleであれば、「世界中のすべての情報を収集し、整理すること」である。僕は、このビジョンと彼らのやっていることに違和感を感じない。それは思想からぶれず、その規模感も妥当だということを示している。思想と事業はベクトルとスカラーが一致していることが大切なのだ。
名著『ビジョナリー・カンパニー』には企業をエクセレント・カンパニーに押し上げるのは「現実的な理想主義」だと書かれていた。「現実的」というのはスカラー的な事業と思想の整合性。「理想主義」というのはベクトル的な事業と思想の整合性ではないだろうか。
日本の会社に思想はないのか?
日本の会社にもビジョンや思想は存在する。まだ、社会人ではないけれど、日本の大企業の社員さんにお話を伺えば、企業それぞれに「思想」が存在する。思想なくして、大企業になることはないのだ。
足りないことは、会社外部に浸透していないことである。しかし、社員も入社前は顧客であり、社会だ。入社後にビジョンや思想を植え付けられても、それは「強制された思想」ではないだろうか。
例えば、任天堂は製品を使うと、消費者としても、思想を感じることが出来る。しかしながら、Google、Apple、Walt Disneyなどの思想×技術×マーケティングの柱には勝利していない。僕が出会った日本企業のCEOはビジョナリーな方々ばかりだった。東京エレクトロン然り、ゼンショー然り、CEOの方々のお話を聞かせて頂いたが、半導体製造装置や食に対する熱いビジョンと気持ちを感じることが出来た。それが、社員に(芯までかどうかはわからないが)浸透しているところまでは恐らく日本企業は出来ている。問題は社会に全く浸透していないことだ。その一因は、社員が「消費者」であった時にその会社のビジョンを感じることが少なかったからかもしれない。企業人である自分と個人である自分が全く独立しており、思想に共通する部分がないのではないだろうか。
ド素人でも、その会社を好きでなくてもその会社の「ビジョン」が少しでも見えるということが大切なのである。
その会社を好きなら、その会社の思想は見えて当たり前。思想を一般人に伝える方法はCSRやプレスリリースではない。本業、コア事業のみが社会に思想を広げる。
思想と事業の整合性以外の問題
もう一点の問題点は肥大化し過ぎた事業領域である。ビジョンがわからなくなる位、企業が肥大してしまった企業は多い。Microsoftはもしかすると、この部類なのかもしれない。ただ、MSと日本企業の異なる点は、技術力や経営力等の手段が豊富であるということだ。日本企業は今、思想と事業の整合性だけでなく、そもそも思想を実現する手段すら危うくなっている。迷走している暇はないと思う。
まとめ
重要なのは思想を持つことではない。思想ならばベンチャーでも持てる。重要なのは、思想に基づいた製品なりサービスを供給し続けること。それだけが、思想に対する需要を生む。思想は社会の重要によって更に大勢に支持される卓越した思想へと磨かれるのである。内部だけでは磨かれることはない。
ムーアは、利用者の行動様式に変化を強いるハイテク製品においては、5つの採用者区分の間にクラック(断絶)があると主張した。その中でも特にアーリーアダプターとアーリーマジョリティの間には「深く大きな溝」があるとし、これをキャズムと呼んだ。
キャズム理論はテクノロジーマーケティングにおける代表的な理論だが、あれを企業思想に対するマーケットセグメントに応用出来ないだろうか。思想とはいわゆる宗教なのかもしれない。クラックやキャズム(大きな溝)はその思想に対する抵抗感といえるのではないだろうか。ただ、apple信者は少なくとも、イノベーターやアーリー・アダプターの2割という定量感を超えていると感じる。