どんなに世の中が便利になっても仕事量が減らないのは、競争しているから : akiyan.com
競争なので便利になっても余った時間が再投資され、仕事量は減らない
この疑問への答えを考えてみたところ、「競争しているから」が答えとなる理由だと思いました。
まず、仕事はほとんどの場合において、競合他社/他者との競争にさらされています。
技術革新っていうのはプレーヤーの変化ではなく、競争環境の変化なので皆に平等に訪れるものなのですね。
皆に訪れる環境の変化によって競争が緩和することはありません。
そして、技術革新によって「効率化」のみが行われるわけではありません。また別の部分で管理を改めて行う必要性が出てくるかもしれないからです。
逆に仕事が増える可能性もあるわけですね。
例えば、スマートフォンの登場で情報収集に関してはやることや頻度が増えているような気がします。それでいて書籍は相変わらず読むしね。
では仕事時間を減らす方法として一番いい方法は何なのでしょうか。
この話の流れ的に、沢山あるであろう答えの中から一つ選ぶなら「みんなが便利だと思うものを作ること」が挙げられます。使うのではなく、作るのです。使うのは簡単なことですが、作るのは中々難しいです。本当に便利なものを作っても、使ってもらうことが難しかったりもします。そしてもちろんのことですが、使ってもらったことで自分たちに利益が落ちる仕組みも必要です。
ただ、便利なものを作っても仕事量自体は変わらないかもしれませんが、報酬が10倍になる可能性は十分にあります。同じ仕事量で報酬が10倍であれば、仕事量が1/10になったと考えるのもアリだと思います。
便利なものを使うことそれ自体は基本的にはどんどんやるとよいでしょう。ただしそれで劇的に何かが変わる可能性は、競争している限りは低いということです。
最後に、「なにがどこに消えてるのか」という問いに対しては、「便利なものを使う側は時間を得てそれを再投資し、便利なものを作った側は利益を得ている」ということで締めたいと思います。
成程、環境を享受する側ではなく、環境を提供する側に回ると。
要はプレーヤーの全くいないところを探して、そこで0から1を作りだすことが唯一「競争の仕組み」から離れることが出来る方法なのかもしれません。
少し意図的に読みかえれば「社会」の輪から『適度に』外れることなのかな、と。(適度にっていうところがツボ)
仕事って特に文系人間にとっては「社会の輪」の中で動き回ることに等しいものなので、この仮説はそこまで離れていない気がします。
で、社会から外れながらもそれなりの収入を持って生きるには自分ではない「何か」を社会の輪に突っ込んで所有・運用することで収益を得ることが不可欠かもしれません。
これが『適度に』の意図。
エンジニア経営者が労働量を減らせるのはその気になればこういう「何か」を作って回せる点なのかも。
エンジニアでなければ「作れない」し、経営者でなければ「回せない」。
文系人間はリタイアするか、現在の仕事量を維持するか。即ち、社会から完全に出るか中にどっぷり浸かるか。1か0しかない気がしますね。意図的に仕事を「減らす」ことは難しいかなと。