足ることを知らず

Data Science, global business, management and MBA

消費する理由

広告β
http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51608532.html
のエントリを読んで。

何とも、切り口の面白さが素晴らしすぎて、一気に読んでしまった。一定の長さ以上の文章を精読したのは久々かも。いつもは飛ばし読みなので。

仕事でも思いを強くしているところなのだけれど、消費には今かなり「言い訳」が必要とされているのだと思う。商品選択ではなくて、消費そのものに。広告のメッセージは選択の理由づけであることが多くて(他社よりここが優れてます、とか)、そもそもの消費自体を言い訳してくれないことが多いように思う。これは広告メッセージを競合比較などから作りすぎてしまうことの問題だし、さかのぼるのであれば商品企画も他社比較ばかりで進めてしまうことに原因がある。でも今は、選択以前にモノを買うこと自体への言い訳が必要だ。これは世の中全体の消費傾向が単一でなくなってきている(三種の神器とか)ことが影響しているのだと思う。たとえ合理的でなかったとしても、というか合理的でなくたって全然問題ないのだけれど、気持ちよく買える言い訳作りはあってもいいなと感じた。

消費する対象の選択肢を支えるための広告ではなくて、消費を一つの意思決定の選択肢として支えるための広告というのは新しい気がする。我ながらひどい日本語だと思うけど、少し詳しく説明する。まず、我々は「お茶を買いたい」と思う。そして、「お茶の中でどれが欲しいか」というプロセスに移る。これまでは「お茶の中でどれが欲しいか」というところに広告は躍起になってきた。しかし、時代は変わった。お茶のような日用の必需品、食品ならまだしも以前の三種の神器のような「持ってて当たり前商品」というのは減った。だから、その商品群を買わなければならない「消費の言い訳」を考えねばならなくなった。更に言えば、娯楽品に関してはお金を使わずに出来る娯楽の誕生、24時間のうち大部分をお金を使わずに過ごせることが出来るようになったことが
かなり効いている。だから、これはもしかすると全然別の話かもしれないが最近のテレビというのは「見る理由」を必死にアピールしている。番宣である。以前のように手放しで見てくれないのだ。現代人の行動選択の広がりというのはこの問題に関してかなり大きく寄与している。

あとは、商品というのは快感を運ぶメディアだということ。人は、快感(幸福だと、ちょっと言い過ぎかも)を商品を通じて買っている。思い出したのはCDのこと。かつて音楽市場では、音楽という情報をCDというメディアを通じて手に入れていた。ところがデータそのものが直接やりとりできて、物理メディアであるCDが要らなくなると、物理メディアをかませることで成り立っていた市場が崩れてきた。それと同じようなことが起きるかもしれない。もちろん快感はまだ、データのように直接やりとりしたりコピーしたりはできない。けれどもモノを消費することを前提としない「所有から利用」への転換が進んでいく中で、所有→廃棄を前提とした仕事の回し方をすることがリスクになってきているような印象を強くした。モノを持たなくても幸せになれるなら、それはある種の理想社会なわけで、そういった社会のなかで成り立つビジネスというのもありうるかもしれないと思う。

これは鳥肌が立った。間違いない。既存メディア、広告がその快感をイメージさせることが目的だとすれば、やはり快感を運ぶメディアは商品自体にある。だからこそ、ブランディングマーケティングには広告や販促だけではなくて商品開発から考えた、根本からの改革が必要なのかもしれない。商品自体もコミュニケーションの一貫なのだ。広告モデルがAIDMAやAISASというように歌われてきたが、今最も熱いプロセスはこの中に入っていない"Use"というプロセスなのかもしれない。