足ることを知らず

Data Science, global business, management and MBA

ギリシア神話(ゼウス編)

昔からギリシア神話が大好きでした。元々の出会いはシュリーマンの伝記を漫画で読んだところからでしたが、人間味あふれていながらも、神々が個性を持ちながら、気ままに暮らす姿というのは神が出てくる物語として唯一違和感なく受け入れられたと思います。

ゼウス(古典ギリシア語:Ζεύς, Zeus)は、ギリシア神話の主神である。天候、特に雷を司る天空神であり、オリュンポス十二神をはじめとする神々の王である。

ゼウスは親のクロノスに食べられることを避け、兄弟も助けだした偉大な神なのです。しかしながら、最も人間臭いのもゼウスといえます。自分の浮気はOKなのに、相手の浮気は絶対NG。遠慮なく無理難題を押し付ける暴君とも見てとれます。

ホメーロスの記述にみるゼウスは、2つの異なる姿で描かれている。一面ではゼウスは弱者の守護神、正義と慈悲の神、悪者を罰する神としてあらわされる。しかし同時に、次々と女性に手をだしては子孫を増やし、不貞を妻に知られまいとあらゆる手段を講じる神としてもえがかれている。

元来はバルカン半島の北方から来てギリシア語をもたらしたインド・ヨーロッパ語族系征服者の信仰した天空神であったと考えられ、ヘーラーとの結婚や様々な地母神由来の女神や女性との交わりは、非インド・ヨーロッパ語族先住民族との和合と融合を象徴するものと考えられる。また自分たちの系譜を神々の父までさかのぼりたいという、古代ギリシア人の願望としても説明されることがある。

多くのインド・ヨーロッパ語族系言語を用いる民に共通して信仰された天空神に由来し、その祖形は、ローマ神話におけるユーピテルの原型であるデイオス・パテール、あるいは普通名詞「神」を表すデイオス、デウス、古層のインド神話の天空神ディヤウス北欧神話テュールらに垣間見ることができる。

好色なこの父神は、ギリシアにおける道徳意識の高まりとともに、しだいに好ましくない存在となった。このため後の伝説などでは、ゼウスを崇高な存在として表現するようになった。

で、ここに違和感があるわけです。人間臭いのはいいにしても、ここまで「好色」なゼウスを何故作りあげる必要があったのか。このころのギリシアの人々は神殿を作り、神託を求めていましたから、不必要に権威を損なう叙述は避けるべきであったといえます。しかもゼウスは前述の通り、神々の紛れもないトップ。彼が浮気性であるという発想が「何故」出てきたのだろうかと考えてしまいます。

一つの仮説として、人間味を高めることでより身近な存在、弱者の守護神という面を強めようとしていたということが挙げられるかもしれません。ただし、これでは敢えて好色である必要は全くありませんし、兄弟や美少年にすら手を出すほどの好色である必要は全くないのです。

二つ目の仮説として自己正当化の理由付け。要は「神々がしてるんだから僕たちも」というわけです。特に時の権力者はこのような理由付けを用いて、自分の悪癖を正当化していたのかもしれません。これはなかなか面白いなと思ったのですが、不貞を働く人間に対する神々の厳しさを思えば、これだけが理由だとは限らないと感じます。

で三つ目の仮説が僕が一番面白いと思っているものなのですが、当時のギリシア人は「自分の出自を神に求めた」という事実から来る仮説です。要は、ゼウスが不貞を働き生まれた子の末裔、それが「私」だ。というようなことが権力者の中で横行し、またこれが結構な自慢話になっていたのではということです。この仮説には実は二つ目の仮説も含まれているといっていいでしょう。「出自である神があんな風なのだから俺もそうであって当然だ。」という論理です。さて、これらの仮説でいくと、恐らく神々のトップであるゼウスは出自においても相当に人気を誇ったでしょうから「子孫が沢山いる」必要があったと考えられます。沢山の子供を生んだという形でもいいのでしょうが、普通の兄弟よりも、異母兄弟の方が子孫の幅が増えることは間違いありません。

この仮説を用いれば、出自を求めなくなった後の伝説において、ゼウスが崇高な存在として表現されるようになったのも説明がつくでしょう。「出自としてではなく、神として」ならば、崇高である以外、人間臭い部分などは必要ないからです。

ギリシア神話についてのエントリはまた書きたいと思います。しかし、ギリシア神話は「宗教」と呼ばれるものの中でも一つ面白さが抜けていると感じるのは僕だけでしょうか。