足ることを知らず

Data Science, global business, management and MBA

パワーコンテンツは手段の目的化が起こりがちである。

最近のビジネスコンテストにOBメンターで参加してみると大抵、どの案でもSNSっていうキーワードが出てくる。

確かに、AISASでいくと、shareするためにはSNSは効果抜群のツールかもしれない。

ただし、あくまでツールである。これが目的化する例を最近良く目にする。
何のためにshareするのか、何のためにSNSを作るのか。
その上でそれぞれのコンテンツを面白くしていくべきなのであるが、奈何せんSNSというコンテンツは自分たちが慣れ親しんでいる上に、新規性・娯楽性もとても高いのでついつい頼りがち=依存が起こってしまう。

そもそも何のためにSNSなのかなんて言うことを忘れて、SNSの内容についてしっかり話し合っているところを山ほど見かけた。

これは「魚を取りましょう」という目的を達成するためにいきなりルアーの手入れをし始めたに等しい。

攻める相手は本当にルアーで釣れるのか?どこを攻めるかによってそんなことはいくらでも変わる。
海なのか、川なのか、湖なのか、はたまた釣り堀なのか。

そもそも「釣り」が本当に最適な方法なのかすら怪しい。
魚を「取る」のだから、網で取ったって全く困らない。
現実性を考慮しなければ、海の水を抜くなんて方法もあるかもしれない。

ただし、これがブラックバス釣りが流行っていた頃で、バス釣りにハマっている人間であればあるほど、ルアーの手入れを必死にしたであろう。

そして、そのルアーで「釣れる場所」「釣れる魚」を探すのである。

パワーコンテンツはその巨大な魅力と、そこから生じる将来性・新規性からしばしば目的化がおこりがちだと感じる。最近の僕はSNS辟易が始まっている。

shareの手段にしても、実はAmazonレビューの方がよっぽど良かったりするのではないかと思ってしまうのだ・・・。