足ることを知らず

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日本がヤバいヤバいと言われるのはどうしてなのか

最近いろんなところで「もう伸びない日本」「日本というマーケットは終わった」という記事を見かけます。


どうしてこうなった、どうしてこうなったのAAが欲しいレベル。

僕はその一端に一億総中流という概念があると感じています。

一億総中流(いちおくそうちゅうりゅう)とは、日本の人口約1億人にかけて、日本国民の大多数が自分を中流階級だと考える意識を指す。日本より中流意識が高い国にはスペイン・アメリカ合衆国・カナダなどがある[1]が、いずれも国民の数が約1億人ではないため、「一億総中流」という言葉は日本の場合にのみ使用される。

wikipediaより引用

ただしですね、アメリカと日本の中流の大きな違いは「競争」を経ての中流なのか、そうではないのかということなんですよ。自由競争のプロセスが日本では「教育」「経済」の部分でまだまだ徹底されていません。例えば、アメリカには「産業」=「industry」という言葉はあまり浸透していません。競合と自社が形成すれば、決められた枠組みでなくても「産業」という扱いになるため、流動的な概念です。自由競争という原理の下に国の枠組みはシンプルなものになっているのです。(SOXの例のように複雑化する場合もあります)ただ、日本の場合、国の枠組みが細かすぎるのです。「規制緩和」という言葉が大流行したことからもこのことは伺い取れます。それは「皆に平等に」と一見、正しいように見える前提から形成されているものです。

しかしながら、競争を経て、その結果に伴い予算や教育を配分するということは差別かもしれませんが、結果オーライな気がするのです。どういうことかというと、全員に総花的に平等な教育・待遇を置くことで結局、損をしているのは下層の人間ということです。現在格差格差と言われていますが、この格差問題の本質は間違いなく「格差そのもの」ではなく、「格差という自然現象で不満が出る状況」なのです。低賃金、人材の調整弁の扱いを受ける低所得層を作りだしたのは間違いなく企業の偏執的なコストカットが原因です。では、何故コストカットが必要になったのか。90年代以降、日本の会社が大きなイノベーションを起こせなかったこと、現場レベルの技術は世界トップレベル(これも総花的教育の賜物かもしれない)だが、全社的経営戦略については世界に遅れを取ったこと、グローバルな見識を持つ人間が会社トップに立つことはまだまだ少なく、日本独自の商習慣に捉われているために、慌てて四半期利益獲得に乗り出し、コストカットという安易な道を選んだこと。

僕は日本のエリートはエリート意識が欠如しているように感じます。何故なら、出る杭は打つ社会の中で、「少数エリート自体を心良く思わない」人間が多いからです。ただ、これは大きな間違いで、トップがやるべきことと、現場がやるべきことをごっちゃにしないのと同じように、エリートは凄いというより区別すべきものなのです。その代わり、エリートという人種は法制度、政治、技術等で国に富を還元する義務・責務を負わねばなりません。今の段階ではエリート側の意識も中途半端、それを育てる側の器も中途半端でしっかりとした「区別」と「配分」が行われる気がしないのです。